壁紙はネットで拾ったウルキャサ絵 sonesuguru’s diary

人生の半分くらいをSFに、半分くらいをスト魔女に捧ぐ人のブログ

【未確定情報】日本SF第1世代作家が昨年亡くなっていた?

 

 

結論から先に述べたい。

 

『日本SFの第1世代作家としてSFマガジンで活躍していた久野四郎が、昨年8月に(恐らく)亡くなったがSF界に一切周知されていない』事態が発生している可能性が高い、というものである。

久野四郎の名前については、昔からSFを読んでいた人には説明不要だろうが、大学生から20代くらいまでのSFファンで久野四郎のことを知っている人は非常に少ないと思うので、ひとまず数年前に私が某所に書いた記事を引用する。作者と作品を知っている方は■■■■■■■■■■■■まで読み飛ばしてください。

 

 

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 論争がこじれているところからは「読者」が去るという印象はよく語られるが、「書き手」がいなくなる可能性というのはあまり考慮されていない。その例(であるかも知れない人)として私は久野四郎を挙げたい。ただ久野四郎が誰かを説明するのは手間がかかりそうだ。困ったときの日下三蔵『日本SF全集・総解説』を引っ張り出してみる。

 

マチュア作家で印象に残るのは久野四郎。奇妙な味の作品の名手だが、ここに収めた「いなかった男」を含む『夢判断』(ハヤカワ文庫JAでは『砂上の影』と改題)しか著書がないため、あまり知られていないようなのが惜しい。

 

うむ。もっと知りたいなら原典にあたるしかないようである。それでは、ハヤカワSFシリーズ『夢判断』(1968)の表紙に描かれている著者プロフィールより一部抜粋。

 

1932年(昭和7年)東京に生れる。1956年(昭和31年)成蹊大学卒業後、サッポロビール株式会社に入社。現在は同社のPR誌『サッポロ』の責任編集者。1959年週刊読売の懸賞小説に、奇妙な味のファンタジーを書いて入選。1965年のSFマガジン1月号にSFの処女作『悪酔い』が掲載されたのを契機に、SFを書き続けることになる。巧みなストーリイ・テラーであるこの作者のSFは、強烈なサスペンスを含むスリリングな恐怖小説の味を持ち、その意味で彼独得(原文ママ)の世界を築いている。

 

 週刊読売の懸賞小説というのは特定できなかったが、SFマガジン1964年8月増刊号に未来の嗜好品を夢想するエッセイ記事「ヘロイノイド アルコール今昔・未来譚」を本名の浜口和夫名義で掲載しており(「悪酔い」も浜口和夫名義)、それ以来のSFマガジンとの付き合いになるようだ。

 『夢判断』のあとがきの書き出しは以下。

 

 自分が編集しているPR誌に掲載する福島さんの原稿を確保するために、交換に彼の編集するSFマガジンの穴埋め原稿を書くという不純きわまりない動機で書き出した短篇が福島さんの叱咤激励のおかげで、つもりつもって、とうとう一冊の本になってしまった。

 

 あとがきの中では、自身のSFの原体験について正統的なものではなかったと告白しつつ、江戸川乱歩香山滋や『一九八四年』に親しんできたことを述べ、こう結んでいる。

 

 自分の世界を創造できるという楽しみからいわば一種のリクリエーションとしても書き続けたフィクションだが、このようにまとめて一冊の本を世の中に送り出した以上、やはり今後も書きたい気になってくる。もっとマジメにやろう。むずかしいことばでいえば、早川書房の各位をはじめ諸先輩、諸兄姉の御指導御鞭撻のほどを、私流にいえば、福島さん、ケツをたたいて下さいな。

 

 ところが、次の短編集が刊行されることはなかった――という話をする前に、作品の中身を見ていこう。以下、すべて私が読んだ際のメモである。まず『夢判断』収録作。

 

「砂上の影」飛行機が砂漠に不時着し、死にかけていた男が手に入れた能力

「溶暗」超延命実験の検体となった老人の心に去来する、存在しないはずの記憶

「夢判断」夜寝るたびに原始時代に暮らしている自分を夢見る男。どちらが夢なのか?

「五分前」五分先の未来を視ることができると打ち明けた同僚。その能力は万能ではなく

「ワム」幼い娘がクリスマスプレゼントにねだったのは、聞いたことのない生き物だった

「悪酔い」酒場で悪酔いしてバーテンに絡む男の額には、奇妙な傷跡があった

「結婚エージェント」内向的な男が結婚エージェントに申し込んだ結果

「グルルンガ・ジダ」朝帰りした夫は、妻から一年経っていると告げられて

「上流階級」動物を狩り、粗末な小屋で暮らす男が恐れる“向こう側”にあるもの

「見える理由は・・・」二日酔いの頭で出社すると、死んだはずの同僚がいた

「再会」労働人口の3分の1が兵士である世界。クーデター容疑で拘束された軍人

「くり返し」小さな村の飲食店に辿り着くと、大勢の人が飲んだくれていた

「オー・マイパパ」交通事故に遭った父親がコピーと入れ替わっているかもしれない

「旅行案内」資金繰りに苦しんだ旅行会社は、催眠術を用いて客に旅行を疑似体験させる

「獏くらえ」酒場で知り合った女と寝るたびに、猟奇的で奇妙な悪夢にうなされる

「いなかった男」“失踪した夫を探して”という女の依頼で始まった調査が思わぬ方向に

「事故多発者」タクシーの乗客だった男の魂が、事故でタクシー運転手の体に入ってしまう

 

『夢判断』刊行後、短篇集に収録されず、SFマガジンに掲載されたきりになったのが下記の5作品。国会図書館は便利。

 

69年1月号「ガラスのわら人形」安アパートで起きたトラブル。祈祷師の恨みを買った住人たちを襲う惨劇

69年2月号 十秒間 学生の視点。赤ん坊の視点。流れていく体験はどれも一度経験したことのようで

69年5月号「悪夢は夜来る」家の格を守るため、弟とその交際相手を別れさせようとした男が交通事故に遭う

69年7月号「勇者の賞品」人間が住むのに理想的だが、なぜか誰も立ち入ろうとしない惑星の秘密

69年10月増刊号「シャッター・チャンス」自殺や事故など、決定的瞬間にたびたび巡り合う能力をもったカメラマン

 

最もジャンルSF寄りの作品は「勇者の賞品」で、この作品は山本弘がブログ等で大々的に取り上げている(ただしストーリーの8割くらいをバラしているので未読の人は要注意)。

これ以外は、宇宙人やアンドロイドといったSF要素を含むものはありつつも「奇妙な味」に分類されるホラーテイストの作品が圧倒的に多い。「砂上の影」「五分前」あたりは途中でオチまで割れるが文章の端正さと緊張感で最後まで読ませる。「旅行案内」「勇者の賞品」「シャッター・チャンス」あたりも良い。走馬燈的というかアイデンティティが溶け去っていく茫洋たる悪夢感が特徴。

 

SFマガジン登場は全20回(久野四郎名義小説が17本、浜口和夫名義小説が2本、浜口和夫名義エッセイが1本)。64年から69年なので、6年にわたってSFマガジンに登場し続けた。そして、短編集刊行後は、従来よりも長い作品が増え、むしろより精力的な活動をしていた。その彼が突然ふつりと作品発表を途絶えさせてしまった。なぜだろうか?

 

ひとつの分かりやすい説明は、福島正実がいなくなったことである。上記のあとがきにも見て取れるように、久野四郎福島正実と距離が近かった。その福島正実が、SFマガジン69年2月号にあの「覆面座談会」を掲載して作家からの反発を招き、69年8月号で責任を取って退社するという事態を起こしたのである。繋がりの強い編集者の退社で、作品執筆のモチベーションが薄れたというのはいかにもありそうだ。

 

一方で、覆面座談会で交わされた言説が、久野四郎にとって決して耳心地がよいものでなかったことも事実だろう。覆面座談会では、「A」というメンバー(確定できないが恐らく福島正実)が作品を評価する一方、「C」というメンバー(確定できないが、石川喬司伊藤典夫のどっちかだと思う)が久野四郎に関して以下のように述べている。

 

 ぼくはあまり真面目に読んでないが、後書きを読んで腹が立っちゃったから、偏見があるかもしれない

作品はまあ、確かに見所がなくはないけど……こんな後書きを書く人は、はっきりいって嫌いだな

古風なことをいうようだけど、SFを書く必然性があるかないかということだけどね、SF作家は、SFでしか書けないものを実感として感じ、相手にそれを感じさせなけりゃいけない。それが感じられないようなSFはSFじゃない

石原藤夫の項で)

ぼくは、石原藤夫はとうにアマチュアの域を脱してると思うな。久野四郎あたりよりは遥かに上質だよ

 

皆さん、「SFじゃない」という伝家の宝刀が使われるたびに作家へ大きな遺恨を残してきたのはご存知ですよね。いちいち作家名は挙げませんが。『夢判断』(1968)と、その文庫化『砂上の影』(1975)に収録されている作品は同じ。ただし、『夢判断』に収録されていた「あとがき」は『砂上の影』では削られていて、『砂上の影』はあとがきのない本文のみの一冊になっている。もちろん状況の変化はあっただろうが、新しいあとがきも入っていないというのも色々邪推しそうになる。

 

覆面座談会で一定の長さをもって論じられているのは、久野四郎がそれだけ日本SFの“新人”として注目されていたことの証左でもあろう。覆面座談会で、一節を立てて語られた作家は、星新一小松左京筒井康隆眉村卓光瀬龍豊田有恒久野四郎石原藤夫平井和正のみ。久野四郎を除いては、今でもSF界で名前の通じるビッグネームである。この時点で既にSF界に確固たる地位を築いていた者や、専業作家であった者も多かった。彼らはなんと言われようとSFを書くしかなかったし、書き続けることができた。ただ、兼業作家であり新人だった書き手、福島正実という近しい編集者を失ってしまった久野四郎はどうだっただろうか。

 

もしかしたら、久野四郎が筆を折ったのは、福島正実の去就や覆面座談会事件とは一切関係なく、本業が忙しくなったとかSFへの関心が薄くなったとか、それだけだったのかもしれない。だがいずれにせよ久野四郎は、69年にSF界を去ったのち、戻っていない。本業の方では、『ビールうんちく読本 ニガ味にこだわる男たちへの48話』(88年刊行、92年文庫化)を発表しているが。

 

 SFマガジン1969年8月号掲載の福島正実の退社宣言でもある「それでは一応さようなら」には、覆面座談会事件からの一連の流れを意識してこう書かれている。

 

批評を嫌い、批判されたことを恨み、未練がましくあげつらう精神で、いったいなぜ、SFが書けるか。多少の批評をされたからというので、気落ちして書けなくなるような、そんな女々しい人間は、もともとものを書くべきではなかった。そんな弱々しい作家は、消えてなくなればいいのです。

 

恐らく、ここで福島正実が怒りを向けていた相手は、久野四郎ではなかろう。編集部に抗議文を送りつけた小松左京とか、後に長い論争を繰り広げることになった豊田有恒あたりだったのかもしれない。彼らはSF界を去らなかった。覆面座談会で一項目を設けられた作家は、その後も一定期間はSFを書き続けた。すぐさま“消えてなくなる”作家はいなかった。ただ一人、久野四郎を除いては。

 

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本題である。

こういう記事を書いてしばらくのち、すなわち先週末、もしかしたら本名でググったら他の作品を書いているのではないか、と気づいて、「浜口和夫」「濱口和夫」で検索、さらに出身大学を入れたらもっと正確なデータが出せるだろうと「濱口和夫 成蹊」で検索していたところ、成蹊大学のOB会のHPが引っかかった。それは訃報欄だった。

 

https://www.seikei-alumnet.jp/obituary/h30/20180816-02.html

濱口 和夫氏(政経5回.S31年・高3回・尋3回)は平成30年8月13日に逝去されました。

ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 

S31年というのは恐らく大学卒業年だろう。昭和31年卒業というのは久野四郎の卒業年と合致する。成蹊大学を昭和31年に卒業した同名の人物がいるのでなければ、この訃報は久野四郎のものではないだろうか? 昭和7年生まれだと2018年に86歳。何があってもおかしくない年齢だ。

 

このページがヒットしたのちに私のとった行動は、2018年8月以降のSFマガジンの「編集後記」や「てれぽーと/エトセトラ」欄を確認することと(ファンダムの有名人等の訃報もここに載ることが多い)、WEBやtwitterで「久野四郎」「浜口和夫」「濱口和夫」で検索をかけまくることだった。

 

その結果、久野四郎に翻訳作品があることとか(アンリ・フェルヴァル『計画破壊網』1963年)、1968年3月30日「広告美術」55号に「かつぎ屋」(おそらく未再録作品)が収録されていることなど新情報を発見したが、2010年に柴野拓美追悼ファンジン『塵もつもれば星となる 追憶の柴野拓美』に寄稿していた、というコメント以降の消息はつかめなかった。亡くなったという情報も見つけられなかった。

 

もしこの訃報に書かれていたのが久野四郎本人であれば、星新一小松左京筒井康隆眉村卓光瀬龍豊田有恒石原藤夫平井和正と並べて論じられた日本SF第1世代の作家であり、時代の貴重な証言者でもあっただろう才能を、日本SF界は知らぬ間に失い、追悼特集をするどころかそこから8カ月近くその死を認知さえしていなかった、ということになる。そうだとすればあまりに悲しい事態ではないだろうか。

 

私に調査がついたのはここまでであり、確定情報は得られなかった。どうしても5年前の風見潤のことが思い出されてしまい、状況をご報告することにした。古くからファンダムにいる方か、出版社やプロの方で、久野四郎への連絡ができる方がいらっしゃればどうかその消息を確かめて頂き、万一のことがあれば早川書房にご連絡頂けないだろうか。訃報が全くの別人であり、私の早とちりであった場合は、訂正しお詫びいたします。そうなることを祈っています。